小さいころに見たじいちゃんは、いつも煙草を吸っていた。
 じいちゃんの周りはいつも煙が包み込んでいて、部屋の天井も茶色くくすんでいた。こっちへ来いと言うじいちゃんの方へ近づいた僕がけむたいよ、と文句を言うと、じいちゃんは決まって煙草の煙でドーナツをひとつ作った。
「そのドーナツやるからがまんしとき」
 そして、いつもお得意のたれ目でしわくちゃな笑顔を作るのだ。
 僕とじいちゃんは、毎週水曜日の夕方に散歩をするのが日課だった。月曜日と木曜日はそろばん塾、火曜日は習字、金曜日はスイミングスクール、日曜日は少年野球に通う僕がじいちゃんの散歩につきあえる日は、水曜日だけ。僕がじいちゃんに習い事の話をすると、ちょっとさみしそうに瞳をふせるのは、きっとそのせいだ。土曜日はじいちゃんだって写真クラブに行くじゃないか、と言うと、じいちゃんは嬉しそうに、それは特別だと笑っていた。
 じいちゃんは水曜日の散歩中に決まっておなじみの店で同じ煙草を買う。そして、返ってきたお釣りでこっそり僕にお菓子を買ってくれる。実は僕はそのおかげでじいちゃんの煙草がちょっぴりだけ好きになりはじめていた。

 僕が小学校高学年になった頃、相変わらず煙草をすぱすぱと吸うおじいちゃんに、ちょうど授業で教わったことを話したことがある。
「煙草の煙って、骨をボロボロにするんやって」
「ほう……」
「……じいちゃん、骨大丈夫?」
 じいちゃんはふう、と大きな息と一緒に少し灰色が混じった白い煙をたくさん吐き出して、じいは生まれてから一回も骨折なんかしたことない、と笑いながら、持っていた煙草を灰皿に押し付けた。
 それから、気がつけばじいちゃんが煙草を吸っているところも、水曜日の散歩中に煙草を買うところも見なくなった。散歩には行くのだが、煙草を買いに店に寄ることも、お菓子を買ってもらうこともなくなったのだ。
「じいちゃん、最近煙草吸ってないの?」
 ちょっと気になって、ばあちゃんにこっそり聞いてみた。決してお菓子を買ってもらえなくなったから気になっているのではない。あんなに大好きだった煙草を一切やらなくなったじいちゃんの身体に、何かあったのではと本当に心配になったのだ。
 でもばあちゃんが言うには、どうやらじいちゃんは僕に言われた言葉が妙に気になって「ユータが言うなら」と禁煙を始めたらしい。
 じいちゃんはこうだと決めたら決して芯を曲げない人だった。そんなじいちゃんを僕は誇りに思うし、尊敬もしていた。両親が共働きだったから、学校が終わればすぐにじいちゃんとばあちゃんの家に行っていた小学校の頃の僕は、両親よりじいちゃんと過ごした時間の方が長かった。


「じいちゃんね、長くないかもしれん」
 高校生になった僕に、母さんがそう告げた。極力興味が無さそうにふるまったが、本当は少しだけ手が震えていた。じいちゃんは涙が嫌いだったし、こんな年になって泣くのは僕だって嫌だった。
 だから、じいちゃんの見舞いにはなかなか行けなかった。あの丈夫なじいちゃんが弱っていく姿を見るのはつらかった。
 それでもたった一度だけ、ばあちゃんに言われて会いに行ったことがある。じいちゃんはベッドに横たわって、自分で起き上がることも難しそうだった。
「ユータか」
「ああ」
「じいは、またあの家に戻れるやろか」
 よく晴れた窓の外を見て、じいちゃんはつぶやいた。珍しく弱気な発言に、僕は帰れるよ、と言うことばをのどの奥で涙と一緒に引っかけてしまって、うまく言葉にできなかった。
 じいちゃんと話したのは、それが最後だった。
 禁煙を始めたあの時から、じいちゃんは死ぬまで一度も煙草を吸うことはなかった。

 火葬をして、じいちゃんの遺骨を拾った。骨はきれいに残っていた。
 骨を拾いながらばあちゃんは、父さんに寄りかかりながら泣いていた。
「骨、ちゃんと残ってるやんか、ユータの言うとおりにしていてよかったね」
 ばあちゃんはそう何度も何度も繰り返していた。
 親戚のおばさんたちも泣いていた。他のいとこたちも、いとこの子どもたちも泣いていた。みんなじいちゃんが大好きだったのだと改めて知ったとき、僕は骨を一生懸命拾うふりをして少しだけ泣いた。

 骨壷を持って歩いている途中、日が落ちそうな空を仰ぐと、じいちゃんと歩いた散歩道がフラッシュバックした。夕焼けでオレンジに染まる僕たちの住む町。
 僕は素朴な疑問をじいちゃんにぶつけたことがある。
「じいちゃんはさ、生まれた時からずっとここに住んでるん?」
「ああ、死んでもここに居座るつもりや」
「ほんま? そしたら僕もこの町に居続けるわ」
「そうか、そりゃ楽しくなりそうやな」
 じいちゃんはしわくちゃになって笑いながら、僕の頭を何度も何度もなでた。


「じいちゃん」
 三回忌も終わり、家がまた落ち着きを取り戻したころ、仏壇の前で、僕はじいちゃんに話しかけていた。仏壇の置かれている和室に、夕日の光が差し込んでくる。キラキラとオレンジに光る僕の目の前にじいちゃんがいるような気がした。
「じいちゃん、そこにいるん?」
「なんや、ユータ」
「またさ、ドーナツ作ってよ」
「……はは、そら無理や」
「なんで」
「じいは煙草やめたんや」
「相変わらず頑固やなあ……そしたら」
 久しぶりに散歩に行こう。ちょうど今日は水曜日だ。じいちゃんが大好きだった写真の学校に入学することを伝えたい。
「じゃ、行こう」
 立ち上がる時に目にうつった写真のじいちゃんは、嬉しそうにたれ目をしわくちゃにして笑っていた。









水曜日の散歩道











100124 ほぼ実話を元に作りました。大好きなじいちゃんへ。